(追補再録)
敵兵を救助せよ!
…敵を敬うという
日本の武士道の考え方を、
私は子供や孫にも
話しました。
昨年2014年7月2日の記事の追補再録です。
「敵兵を救助せよ!」…美談を美談としてだけ捉えるつもりもないですが、国民を蹴飛ばすような安倍政権、政府与党とはエライ違いです。
人命を救助できたことは、やはり素晴らしい。
EPSEMS
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敵兵を救助せよ!
海の武士道
Save Enemies!
-Bushido over the Sea
前編
First part
どうしても礼を言いたかった ― 彼のことを忘れたことはない
「 自分が死ぬ前に、どうしてもひと言、お礼を言いたかったのです。 この年になっても、一度として彼のことを忘れたことはありません。」 ( サー ・ フォール談 )
↑ サムエル・フォールさん (現在87歳)
65年前の壮絶な真実 ― 誰も知らなかった奇跡
案内された船の艦内で、サー ・ フォールはしみじみと語り始めた ― 65年前の壮絶な真実を。
それは戦後の長きにおいて、日本人誰もが知らなかった、戦場の奇跡の物語であった。
戦場のラストサムライ ― 日本が圧倒的に優位 ― エンジンが停止 ― エンカウンターは沈没
その物語は、第2次世界大戦が勃発した翌年の1942年、ジャワ海北東部のスラバヤ沖で起こった。
当時の戦況は日本が圧倒的に優位。
イギリスを初めとする連合国艦隊は、連日猛攻撃を浴び、フォール中尉の乗るエンカウンターも、3隻の戦闘艦に包囲されていた。
「 みんな落ち着け、落ち着くんだ!」
砲弾が命中し、エンジンが停止。
もはや脱出する以外、方法は無かった。
( 3月1日 午後2時 )
こうして全員が救命ボートで脱出。
その直後、エンカウンターは、日本海軍の攻撃によって炎上。
海に沈んだ。
重油で目が見えなくなった - 400名以上が漂流 ― 救命ボートは8隻のみ ― パニックに陥った ― 自殺を試みる者も現れた ― 目の前に現れた船は …
本当の地獄はここからだった。
船から漏れた重油で、多くの者が目が見えなくなった。
近くには、沈没した別の船の乗組員を含め、合計400名以上が漂流。
8隻の救命ボートでは余りに不十分。
ボートにしがみつくのがやっとの状況だった。
“ オランダ軍がきっと来てくれる ”
フォールはそう信じていた。
船から離れる前に打ったSOSの無線を受信できる位置に、味方のオランダ軍の基地があったからだ。
しかし、いつまで経っても味方の救助は現れなかった。
イギリス兵 : 「 ウワー、サメだあ! サメにやられたあ!」
実際には、怪我をし海に浸かった足に、魚がやってきて突き始めただけなのだが、不安の中で兵たちはパニックに陥った。
やがて … 。
イギリス兵 : 「 もう限界だ!」
サー・フォール : 「 諦めちゃだめだ。 必ず助けが来る。 生きて祖国に帰るんだ。 家族を思い出せ!」
それは、みずからに言い聞かせる言葉でもあった。
だが … 。
( 3月2日 午前10時 漂流から20時間 )
夜が明け、漂流から20時間近く経っても助けは来ない。
「 おいやめろ!」
苦しさの余り、自殺しようとする者も現われた。
その時 … 。
「 見ろ、船だ!」
「 オーイ、ここだあ!」
「 助かったあ!」
「 ここだあ、ここだあ!」
希望の光が降り注いだ。
「 待て … 」
フォールの目の前に現れたその船は、日本海軍の駆逐艦、「 雷 ( いかずち ) 」。
乗組員220人の小型の軍艦ではあるが、数日前の海戦では連合軍の船3隻を撃沈させるなど、その威力をまざまざと見せつけていた。
その指揮を執ったのが、艦長、工藤俊作 ( 少佐 )。
身長185センチ、体重90キロ、堂々たる体格の猛将であった。
↑ 工藤俊作 艦長
「 左30度、距離8000、浮遊物多数!」
「 我が軍の船が、敵の潜水艦にやられた直後かもしれません。」
「 浮遊物は、その船の残骸かもしれません。」
工藤艦長 : 「 近くに潜水艦のいる可能性はある。 潜望鏡が見えないか確認しろ!」
当時、潜水艦を監視する任務に就いていた谷川氏は … 。
↑ 若き日の谷川清澄さん
( 谷川 清澄さん 91歳 )
「 やっぱり一番心配したのが潜水艦ですね。 潜水艦というのは分からないんですよ。 ぽっと潜望鏡を出しましてね、それですぐ沈めて魚雷を撃ってきますから。」 ( 谷川清澄氏談 )
実はこの2カ月前、雷 ( いかずち ) はアメリカの潜水艦から魚雷の攻撃を受けていたのだ。
しかも、前日も日本の輸送船が、この海域で敵の潜水艦に撃沈されたばかりであった。
工藤艦長 : 「 この海域は油断ならぬ。 戦闘用意!」
「 戦闘用意!」
工藤艦長 : 「 見張りを警戒 “ 厳 ” となせ!」
「 浮遊物は敵兵らしき!」
「 艦長、イギリス海軍です! 400名以上はいます!」
工藤艦長 : 「 引き続き潜望鏡が見えないか確認しろ!」
戦場に 「 情け 」 は無用。
事実、救命ボートで漂流中の日本の病院船の乗員が攻撃され、158名が死亡するという悲惨な出来事も起こっていた。
工藤艦長 : 「 取り舵いっぱい!」
工藤の船が、ついに漂流者を射程距離にとらえた。
イギリス兵 : 「 日本軍だ!」
その時、工藤艦長が見たものは … 。
ボートや瓦れきにつかまり必死に助けを求める、400名以上のイギリス海兵だった。
しかし、この海域は、いつ潜水艦に襲われるか分からない危険地域。
すべては艦長、工藤の決断に委ねられた。
イギリス兵 : 「 もうだめだ! このままじゃ機銃掃射で蜂の巣にされるぞ! どうするんだよ!?」
そしてフォールたちは、最期の瞬間を覚悟した。
工藤艦長 : 「 敵兵を救助せよ!」
それは、救難活動中の国際信号旗だった。
「 敵を助けるだと!?」
「艦長、正気なのか!?」
「 助けたとしても、敵は400名以上いるぞ!」
「 助けた後、元気になったらやられるかもしれない!」
しかし、工藤はある信念を貫いた。
それは、工藤が海軍兵学校の頃から教育された 「 武士道 」 だった。
敵とて人間。
弱っている人間を助けずして、フェアな戦いはできない … 、それが武士道である、と。
世紀の救助劇は、こうして始まった。
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敵兵を救助せよ!
海の武士道
Save Enemies!
-Bushido over the Sea
後編
Second part
まずは、自力で上がれる者に手を差し伸べたのだが … 。
日本兵 : 「 お前たち、何で上がってこないんだ?」
イギリス兵 : 「 病人を先に!」
イギリス兵たちは、傷ついた者から優先的に救助するよう求めた。
「 頑張れ!」 「 頑張るんだ!」 「 早く! 頑張れ!」
これが当時の写真である。
↑ 救助時の実際の写真
皆、最後の力を振り絞り、雷 ( いかずち ) に向かって泳いできた。
しかし、地獄の漂流を続けて21時間、飲まず食わずで海を漂流してきたイギリス兵たちの体力は限界を超えていた。
「 艦長、自力で上がれるやつはほとんどいません。 救助するにも、とても手が足りていません。」
そして工藤は、第2の大きな決断をした。
工藤艦長 : 「 一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意!」
それは日本海軍史上、極めて異例な号令だった。
最低限の人間だけ残し、あとは全員救助に向かえという工藤艦長の決断に、全員が覚悟を決めた。
「 艦長、私も救助に向かってよろしいでしょうか?」
「 私も!」
工藤艦長 : 「 うん … 」
しかし工藤は気を緩めることはなかった。
220名の命を預かる艦長として。
「 手空き総員、ロープ、竹竿を両舷に出せ!」
およそ170人の日本兵によって急ピッチで進む救助。
しかし、イギリス兵たちは限界に達していた。
ロープを握る力もない者には竹竿をおろし、抱きつかせてボートで救助しようとしたのだが … 。
「 頑張れ!」
竹竿に触れた瞬間 … 。
「 頑張れ!」
安堵したのか、イギリス兵は … 。
力尽きて海中に沈んでいった。
その時 … 。
「 …… 」 ( 沈んでいったイギリス兵を助けるため、海中に飛び込む日本兵 )
「 ロープをくれ!」
「 引け!」
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イギリス兵 : 「 ありがとう!」
日本兵 : 「 …… 」
もはや敵も味方もなかった。
艦橋から、この情景を頼もしそうに見ていた工藤は … 。
工藤艦長 : 「 魚雷搭載用のクレーンも使うぞ! 使える物は何でも使え!」
そしてフォール中尉も敵艦に救助された。
「 救助の旗が揚がった時は、夢かと思いました。 彼らは、敵である私たちを全力で助けてくれたのです。」 ( サー ・ フォール談 )
甲板上では、油や汚物にまみれていたイギリス兵の体を、木綿の布とアルコールで ( 日本兵が ) 優しく丁寧に拭いた。
さらに、日本兵にとっても貴重な真水や食料を惜しみなく与えた。
↑ 日本兵にとっても貴重な真水や食料を惜しみなく与えた
やるだけのことはやった ― 誰もがそう思った時だった。
工藤艦長 : 「 まだ終わってはいない … 。」
「 どういうことでしょうか?」
工藤艦長 : 「 左前方に舵を取れ! 漂流者を全員救助する!」
「 艦長、このまま救助を続けると、戦闘になった時、燃料が足りなくなると言っています!」
工藤艦長 : 「 構わん! 漂流者は1人も見逃すな!」
↑ 遠方の生存者も残らず救助させた
その後も工藤は、たとえ遠方に一人の生存者がいても船を停止し、救助させた。
そして、溺れていた敵のイギリス兵を救助した。
その数は、日本の乗組員の2倍近い422名に上った。
「 1人、2人を救うことはあっても、全員を捜そうとはしないでしょう。 たとえ戦場でもフェアに戦う、困っている人がいれば、それが敵であっても全力で救う。 それが日本の誇り高き “ 武士道 ” であると認識したのです。」 ( サー ・ フォール談 )
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「 士官のみ全員甲板に集合せよ!」
しかし、捕虜である身に変わりはない。
フォールたちは、何をされるか不安に陥った。
そして艦橋から下りてきた工藤が吐いた言葉は … 。
工藤艦長 : “ You had fought bravely ! ” ( 諸官は勇敢に戦った!) “ Now, you are the guest of the Imperial Japanese Navy ! ” ( 諸官は日本海軍の名誉あるゲストである!)
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名誉ある422人のゲストは、翌日にボルネオ島の港で、日本の管轄下にある病院船に捕虜として引き渡された。
そしてフォールは、終戦後、家族と愛する恋人のいるイギリスへと無事帰国。
サー ( Sir ) の称号を与えられるほど、有能な外交官として務め上げたのである。
彼は、みずからの人生を1冊の本にまとめた。
その1ページ目には、こう書かれている。
「 この本を、私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた工藤俊作に捧げます。」
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「自分が死ぬ前に、誇り高き日本人である工藤艦長にぜひお礼が言いたくて、日本を訪れたのです。」 ( サー ・ フォール談 )
しかしその時、工藤の消息はつかめなかった。
実は、工藤が別の船の艦長になった1942年、雷 ( いかずち ) は敵の攻撃で撃沈、全員が死亡した。
そのショックからか、終戦後、工藤は戦友と一切連絡を取らず、親戚の務める病院で手伝いをしながら、ひっそりと余生を過ごした。
そして昭和54年1月4日、77年の生涯を終えた。
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みずからのことを一切語らずに亡くなった工藤俊作。
この物語は、サー ・ フォール ( Sir Falle ) の来日がなければ、知られることはなかったのである。
戦場の奇跡は、サー ・ フォールの話に感動した元自衛官の手により、本にまとめられた。
「 皆さん、取材関係者の方に取材したんですけれども、1人としてその話を聞いたことがないと言っておりました。 やはり戦争で多くの部下と戦友を失ったという悲しみが、工藤艦長の口を、戦後、封じたと思います。」 ( 惠隆之介氏談 )
↑ 惠隆之介氏 ( 元海上自衛隊士官 )
「 “ 俺は当たり前のことしかやってないんだよ ” って … 、“ 別に褒めることないんじゃないか ” と言われるだろうと思います。 そういう人でした。」 ( 谷川清澄氏談 )
「 この出来事は、日本人に対して持つ私の印象に、ずっと影響を与えました。 深い尊敬と感謝の念を抱いています。」 ( サー ・ フォール談 )
激戦のさなかに、400名以上の敵の命を救った工藤艦長。
彼の残した、誇り高き真の武士道の姿は、今も多くの人々の心の中に生き続けている。
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みずからのことを一切語らずに亡くなった工藤俊作。
しかし生前、イギリス兵に関して、1度だけ語ったことがあるという。
それは、持っていたバッグが余りにぼろぼろだったため、姪が 「 なぜ新しい物に替えないのか 」 と聞いた時であった。
その時、工藤は、「 これは昔、イギリス兵からもらった大切なバッグなんだ 」 と語ったという。
「 “ 敵を敬う ” という日本の武士道の考え方を、私は子供や孫にも話しました。 世界の人々が仲よくなるきっかけになればと思います。」 ( サー ・ フォール談 )
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↑ “ 敵兵を救助せよ! ”
( 惠隆之介著 )
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↓ EPSEMS英文速記の 「 基礎の基礎 」 ( 画像1枚 )